ダンテを読まずに

「文献学だけはだめですよ、文献学をやると最悪なことになりますからね⋯⋯」(イヨネスコ『授業』)

阿呆船

まず皮切りに一踊り。
積んだ書物は山ほどあるが
とんと読みゃせぬ分かりゃせぬ。(p.20, 尾崎盛景訳)

ブラントの『阿呆船』ではまず最初に「無用の書物のこと」と題された章があって、いわゆる積ん読が揶揄されている。この章が最初にあるのは著者であるブラントが自分のことを笑ったからだともいうけれど、この本が出版されたのが1494年ということで、いまだ活字書物の揺籃期=インクナブラの時代だと思うと、積ん読の歴史の深さに打たれるようだ。以前積ん読がtsundokuとして英語圏に「翻訳不可能な単語」として紹介された記事を見たことがあるけれど、いずれOED入りする日も来るかもしれない。しかし「積ん読」というのがほとんど出版文化と同時に生まれたものだとすると、これを指す言葉が西洋に生まれなかったのは変な話だ。むこうの方が通読義務というか、古典を読んでいないと公言するのははばかられることだったのだろうか。確かにロッジの『交換教授』に描かれた「屈辱」なるゲームの顛末などを見るにそうなのかもしれない。そういえば以前、英語の記事で「読んだふりをするために本棚においておかれる本トップ10」みたいなランキングも見たことがあるから、これもその例証になるかもしれない(ちなみにそのランキングの上位は『高慢と偏見』とか『1984年』だったように思う)。もちろん日本でも本棚に飾るために本を置くということはままあるだろうが、それが具体的なタイトルになるということは珍しいような気がする。そういう目的の場合、日本だと「世界文学全集」のようなものになるのではないだろうか。

さて、これは英文科の教授がいつか言っていたことだけど、なんでも本は部屋においておくだけで夜寝てる間に中身が滲み出してきて、勝手にこっちの頭が良くなってくれるらしい。大変ありがたい話で、それ以来僕もどんどん本を買っては積むようにしているもののなかなか効果が出ないので、もっと量が必要なのだろうと考えている。最近ではいよいよ本棚からあふれてきて、常時机の上に本が積まれているのだけど、聞くところによるとルネサンス期には本というものは積んでおくのが常態だったそうなので、いにしえの人文主義者たちの顰に倣っている。


頭を割るほど苦労して
なんで覚えにゃならぬのだ。
学問しすぎりゃ気がふれる、
わたしは貴公子、学問は
他人にまかせておけばよい。(p.21)

阿呆船〈上〉 (古典文庫)

阿呆船〈上〉 (古典文庫)