le sujet surpasse le disant

スタンダールはその自伝的作品、『アンリ・ブリュラールの生涯』の最終章で、自分が経験した愛について語ることのむずかしさを訴えている。自分が最も愛するものについて語ることの困難さ・不可能性というテーマはのちにバルトが取り上げることでも有名だが、スタンダールはそれをたとえばこのような形で表明する。

いったいどうすれば良いのか? 常軌を逸した幸福をいかに描けば良いのか?
読者はだれかを気が違うほどに愛したことがあるだろうか? その生涯で最も愛した女性と一夜を共にするという幸福を経験したことがあるだろうか?
ああ、もう続けることができない、主題が語り手を越えてしまっている。

Quel parti prendre ? comment peindre le bonheur fou ?
Le lecteur a-t-il jamais été amouroux fou ? A-t-il jamais eu la fortune de passer une nuit avec cette maîtresse qu'il a le plus aimée en sa vie ?
Ma foi, je ne puis continuer, le sujet surpasse le disant.

この引用個所のなかでもとくに最後のフレーズは、崇高さに直面した時の筆者の態度をよく示す一文として知られ、引用されているように思う。

ところで、このフレーズには元ネタがある。さかのぼること二百数十年、1545年のリヨンで、イタリア語版の『俗事断片詩集(カンツォニエーレ)』がジャン・ド・トゥルヌによって出版された(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k10568287)。(イタリア語で書かれた!)序文で編者は、その本をフランスにおけるペトラルカの後継・発展者と目されていたモーリス・セーヴにささげるのだが、そこでセーヴが(『カンツォニエーレ』で愛の対象とされた)ラウラの墓とされるものを見つけた時のことを記している。その序文の末尾に、ラウラの墓発見の報を聞いて立ち寄ったフランソワ一世がしたためたエピタフが伝えられている。その後半は次のようになっている。

おお高貴な魂よ、かくも高く戴かれ
誰があなたを讃えられよう、口をつぐむことのほかに?
言葉はうまく出てこないのだから
対象が語り手を凌駕するときには

O gentill'Ame, estant tant estimee,
Qui te pourra louer, qu'en se taisant ?
Car la parolle est tousiours reprimee,
Quand le subiect surmonte le disant.

このエピタフはそれなりに知られていたようで、シャトーブリアンも『墓の彼方からの回想』中でラウラの墓を訪れた際に引用しているらしい。スタンダール自身、『カンツォニエーレ』にはかなり親しんでいたようなので*1、このエピタフのことは知っていただろう。正確な引用にはなっていないところなどに鑑みるに、どちらかといえば無意識的にかつて目にしたフレーズを口にしたというところだろうか。

ちなみに、このエピタフが本当にフランソワ一世の手によるものなのかという点にも議論が存在するらしく、例えば20世紀のモーリス・セーヴ研究の端緒を開いた研究者であるソーニエは、これをセーヴの作だと主張している。たしかに、このエピタフにうかがえる強く新プラトン主義的な雰囲気はモーリス・セーヴの作品に近いものがあるかもしれない。いずれにせよ、これが16世紀フランスにおいてペトラルカの精神を引き継ぎ(フランス語文学の中で)発展させようとした人によるものであることは間違いない。そう考えると、スタンダールが愛を語ることの不可能性を訴えるときにこのフレーズを用いたことは、ロマン主義や、ひいては20世紀のバルトに至るまでの、ペトラルキスモや新プラトン主義の系譜を浮かび上がらせるようにも思える。

 

*1:« Le premier sonnet de Pétrarque, qui me fait pitié, fait rire beaucoup de gens secs », Molière, Shakespeare, la Comédie et le Rire(「ペトラルカの第一ソネットは私には憐れみをもよおさせるのだが、冷淡なひとびとにとっては笑いの種となる」『モリエールシェイクスピア、喜劇と笑い』)参考:ペトラルカ 『カンツォニエーレ 俗事断片詩集』 池田廉訳 名古屋大学出版会 1992年 p. 565