ダンテを読まずに

「文献学だけはだめですよ、文献学をやると最悪なことになりますからね⋯⋯」(イヨネスコ『授業』)

le sujet surpasse le disant

スタンダールはその自伝的作品、『アンリ・ブリュラールの生涯』の最終章で、自分が経験した愛について語ることのむずかしさを訴えている。自分が最も愛するものについて語ることの困難さ・不可能性というテーマはのちにバルトが取り上げることでも有名だが、スタンダールはそれをたとえばこのような形で表明する。

いったいどうすれば良いのか? 常軌を逸した幸福をいかに描けば良いのか?
読者はだれかを気が違うほどに愛したことがあるだろうか? その生涯で最も愛した女性と一夜を共にするという幸福を経験したことがあるだろうか?
ああ、もう続けることができない、主題が語り手を越えてしまっている。

Quel parti prendre ? comment peindre le bonheur fou ?
Le lecteur a-t-il jamais été amouroux fou ? A-t-il jamais eu la fortune de passer une nuit avec cette maîtresse qu'il a le plus aimée en sa vie ?
Ma foi, je ne puis continuer, le sujet surpasse le disant.

この引用個所のなかでもとくに最後のフレーズは、崇高さに直面した時の筆者の態度をよく示す一文として知られ、引用されているように思う。

ところで、このフレーズには元ネタがある。さかのぼること二百数十年、1545年のリヨンで、イタリア語版の『カンツォニエーレ』がジャン・ド・トゥルヌによって出版された(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k10568287)。(イタリア語で書かれた!)序文で編者は、その本をフランスにおけるペトラルカの後継・発展者と目されていたモーリス・セーヴにささげるのだが、そこでセーヴが(『カンツォニエーレ』で愛の対象とされた)ラウラの墓とされるものを見つけた時のことを記している。その序文の末尾に、ラウラの墓発見の報を聞いて立ち寄ったフランソワ一世がしたためたエピタフが伝えられている。その後半は次のようになっている。

おお高貴な魂よ、かくも高く戴かれ
誰があなたを讃えられよう、口をつぐむことのほかに?
言葉はうまく出てこないのだから
対象が語り手を凌駕するときには

O gentill'Ame, estant tant estimee,
Qui te pourra louer, qu'en se taisant ?
Car la parolle est tousiours reprimee,
Quand le subiect surmonte le disant.

このエピタフはそれなりに知られていたようで、シャトーブリアンも『墓の彼方からの回想』中でラウラの墓を訪れた際に引用しているらしい。

ちなみに、このエピタフが本当にフランソワ一世の手によるものなのかという点にも議論が存在するらしく、例えば20世紀のモーリス・セーヴ研究の端緒を開いた研究者であるソーニエは、これをセーヴの作だと主張している。たしかに、このエピタフにうかがえる強く新プラトン主義的な雰囲気はモーリス・セーヴの作品に近いものがあるかもしれない。いずれにせよ、これが16世紀フランスにおいてペトラルカの精神を引き継ぎ(フランス語文学の中で)発展させようとした人によるものであることは間違いない。そう考えると、スタンダールが愛を語ることの不可能性を訴えるときにこのフレーズを用いたことは、ロマン主義や、ひいては20世紀のバルトに至るまでの、ペトラルキスモや新プラトン主義の系譜を浮かび上がらせるようにも思える。

 

Virgil か Vergil か

ローマ最大の詩人、ウェルギリウス(Vergilius)の名前は西欧諸語に俗語化されると最初の e が i に変わることがある。例えば英語ではVirgil、フランス語ではVirgileといったつづりが一般的だ。この問題について、David Scott Wilson-Okamura, Virgil in the Renaissance, Cambridge, Cambridge University Press, 2010が冒頭の一章を割いて議論を展開しており、なかなか興味深かったので紹介してみたい。

さて、このつづりの変化がそもそもなぜ起きたのかという点は解明が難しいが、さまざまな可能性が挙げられている。
ラテン語としてよりなじみのある単語(vir=男、人)に引きずられたから
ウェルギリウスがかつてつけられていたあだ名Partheniasからvirgoを連想したから
ウェルギリウスの母の伝説的二つ名virga laureaやvirga populeaからの連想*1
と、まさに諸説紛々といった様相を呈している。この誤りは早くも4世紀に始まるとも言われているが、具体的な写本などが挙げられているわけではないので確認できなかった。ともかくある時点でVergiliusがVirgiliusとつづられた写本が出現し、以降この詩人の名前は混乱状態のまま伝えられ、そのまま俗語化したということらしい。

しかし本書が扱うのはその起源ではない。問題はなぜその誤りが現在に至るまで残っているのか、という点にある。というのも、この問題についての解答は15世紀末には提示されていたからである。
その解答はアンジェロ・ポリツィアーノの手による。彼はその著書『雑纂』中のある章(第77章)で、このローマの大詩人の名前はVergiliusとつづられるべきであると結論付けていたのだ*2ポリツィアーノの議論の仕方はそれ自体興味深いもので、とくに碑文のような非文献的資料を活用しているところが目を引く。

しかし、ポリツィアーノのこのような議論にもかかわらず、以降もVirgiliusという誤ったつづりは存続する。著者ウィルソン=オカムラはその理由をポリツィアーノが先の議論を出版した『雑纂』という形式にあるとみる。
中世以来、古典的テクストについての議論を展開するには、そのテクストに併置されたコメンタリーという形式を用いることが一般的だった。とくにウェルギリウスルネサンス期においてもラテン詩人の筆頭という地位は揺るがず*3、そのコメンタリーの需要も大変なものだった。原著では当時の出版状況をかなり詳細に検討しているがここでは割愛する。重要なのは、そういったコメンタリーのなかでも影響力(重版回数がその指標とされている)に差があり、しかも特にローマ末期のものが多く重版されているということだ。ウェルギリウスのどの作品を見ても、最も多く重版されたのはセルウィウス*4のもので、これは四世紀末から五世紀に書かれ、中世を通じて読み継がれてきたものだ。ルネサンス期といえども、中世以来読み継がれてきた注釈書は依然強い影響力を持っていたことがうかがえる。ほかにも上位に来るのはドナトゥスやプロブスなど、古代末期の注釈家の手によるものだ(ドナトゥスはルネサンス期に再発見されたテクストだが)。

では、同時代の人文主義者たちの手による注釈はどうだったか。たとえばクリストフォロ・ランディーノはウェルギリウスの『アエネーイス』に対する独特な新プラトン主義的・寓意的解釈(アエネーアースの旅を至高善に至る道のりとし、ディドーの逸話をその過程で乗り越えるべき(肉欲ではなく)権勢欲をあらわすとするなど*5)で知られるが、そのコメンタリーは15世紀末をピークにそれほど重版されず、大きな影響力は持ちえなかった。他方、同じ同時代でもバディウス・アスケンシウス(Badius Ascensius)のものは、特筆すべき独創性を持たないにもかかわらず、豊富な文法的注釈やほかの注釈家の引用が幸いしたのか16世紀を通じて重版されている。けっきょく市場を支配するのは読みの独創性よりも、古典的権威か、あるいは需要への一致ということなのだろう。従って、ポリツィアーノの『雑纂』もまた厳しい立場に置かれざるを得ない。文献学的問題を扱った短い文章を集めた本はあまりに専門家向け過ぎて、広い影響力を獲得することはできなかった。

以上はいわば消極的な理由だが、さらに積極的な理由もある。ポリツィアーノの主張に真っ向から異を唱えるコメンタリーが出現したのだ。ジョヴァンニ・ピエリオ・ヴァレリアーノ(Giovanni Pierio Valeriano)のCastigationes et variantes Virgilianae lectionis(1521)である。この本はいままでのコメンタリーと違い、純粋に文献学的な問題のみに論点を絞ったところに特徴があるらしい。つまりウェルギリウスの書いたことの文化的背景や解釈には踏み込まず、ウェルギリウスが「何と書いたか」という問題のみを扱ったのだ。
問題となるのは『農耕詩』末尾の四行である。そこにはこのような詩文が現れる。

Illo Virgilium me tempore dulcis alebat
Parthenope studiis florentem ignobilis oci:
Carmina qui lusi pastorum: audaxque iuuenta
Tityre te patule cecini sub tegmine phagi. (Geo. 4.563-566)

見てわかるように、ここには作者である詩人の名前が出てくる*6。したがって作者の名前を決定することが問題となるわけだ。ヴァレリアーノはポリツィアーノの議論を参照しながらも、詩人の名前はVirgiliusだと結論する。その論拠はいくつかある。まず、ある古い写本では確かに詩人の名前がVergiliusと書かれている。しかしその写本では本来 i とともに書かれるべき単語が e を使って書かれるという事態が頻発している。したがってある時代に単語中の i が e に置換されるという現象が発生したと考えられる。実際、ワッロが指摘するように、ローマの神メルクリウスも元はミルクリウスという名前だったというではないか。また、碑文の中にもVirgiliusというつづりを持つものがある。

以上がヴァレリアーノの主張である。残念ながらこの結論は誤っていたのだが、ヴァレリアーノのコメンタリーは圧倒的影響力を持った。ポリツィアーノ同様ヴァレリアーノもまたメディチ家の庇護下にあったが、時代が下ったことでその権勢がさらに大きくなっていたという政治的変化も無視できない。今や教皇の座はメディチ家の人間によって占められ、そこに献呈されたヴァレリアーノの本は序文で海賊版を作るものは破門に処されると警告している。にもかかわらず(だからこそ?)ヴァレリアーノのコメンタリーはパリやリヨンで海賊版が出版され、1586年に至るまで重版が繰り返される。

 けっきょくポリツィアーノの議論はふさわしい影響力を得ることなく、Virgiliusというつづりは存続する。その外的要因は上に挙げたようなことなのだが、そこにはまたラテン語というものに対する態度そのものも関わってきているのではないか、と著者は最後に指摘する。それを象徴的に示すのがフランソワ・デュボワ(François Dubois)の書簡だ。そこで彼はさいきん多くのものがポリツィアーノの顰に倣い、あたらしい書き方でラテン語を書いていると述べる。しかし、最後には「習慣が新奇さに打ち克った Sed novitatem vicit consuetudo」と言う。著者いわく、この表現はポリツィアーノとデュボワのラテン語に対する態度の違いを示している。ポリツィアーノは中世のラテン語を認めず、古典古代のものこそ「正しい」ラテン語だとみなす。したがって、いまどれだけ多くの人がVirgiliusとつづっていようと、古典古代にVergiliusと書かれていたならそれこそが正しい。この態度は、いわばラテン語を死語として扱い、その変革を認めない立場だといえる。一方のデュボワは先の書簡で「習慣」と言っていることからも分かる通り、ラテン語をいまなお変化を続ける生きた言語と捉えている。VirgiliusかVergiliusかという問題は、このようなラテン語に対する態度の違いを写し出すものでもあった……というのがウィルソン=オカムラの結論である。

結論部分はより発展的議論への接続が可能だと思う(ポリツィアーノラテン語観は古さと新しさが錯綜しており、ルネサンスにおける歴史意識の問題を感じさせる)が、ウェルギリウスの名前の表記がラテン語を対象にあらわれた歴史意識の違いを背景に持つというのは魅力的な見立てだ。ウェルギリウスの名前の綴り一つとっても、エピソード的な問題に見えて意外と広い射程を持つようで興味深い。

*1:これら原因と目された逸話類はおもにDonatusの『ウェルギリウス伝』に由来するようだ。それについては紹介している本の著者、ウィルソン=オカムラによる英訳がインターネット上に公開されている。Donatus, Aelius. Life of Virgil. Trans. David Scott Wilson-Okamura. 1996. Rev. 2005, 2008. Online. Internet. Available HTTP: http://virgil.org/vitae/ (最終閲覧日時 2019年5月3日

*2:1489年版(おそらく初版)がInternet Archive上で閲覧できる https://archive.org/details/ita-bnc-in1-00000651-001/ 

*3:純粋な出版点数などからみると人気一位はオウィディウスだったかもしれないが、叢書類を出版するときなどはまずウェルギリウスからというのが多かったらしく、格としては筆頭の地位は確かだったようだ。また教育現場での採用率も高かったらしい。

*4:先に挙げたドナトゥスの一世代上にあたり、『ウェルギリウス伝』も、原型は多くの部分がセルウィウスの手によるものだと考えられている

*5:この読みには『神曲』の読書体験が影響しているらしく、ある種のアナクロニスムが指摘されていた。この問題と人文主義者の歴史意識から現代の西洋古典学における「理論」の問題に触れた論文があった(Craig Kallendorf, "Philology, the Reader, and the Nachleben of Classical Texts," Modern Philology, 92, 1994, p. 137-156)

*6:ちなみにいま問題なのは二語目のVirgiliumだが、それ以外の箇所も現在標準とされるテクストとは少しズレがある。ただし引用箇所はWilson-Okamura本からの孫引き。

@の起源

いまやメールアドレスなどに欠かせない記号である@だが、その起源についてはどうもはっきりしないというか、正直うさんくさい話がごろごろしている。この問題について古書体学者のMarc H. Smithがまとめていたので、ここで紹介してみたい。詳しい報告のようすは以下に動画としてあげられている他、この内容を簡単に文章にまとめたものもある(Marc H. Smith, « L'arobase du XIVe au XXIe siècle », Graphê, 55, 2013, p. 6-10)。またこれらの情報はこのブログ記事を通して知ったので、併せて紹介しておく。

www.youtube.com

 

まずは既存の説を検討するところから始めよう。ひとつめはラテン語の前置詞adの略字に由来するという説だが、これについてはそのような用例は確認されていないということに尽きる。この説の元になっているのは前回の記事で扱ったUllmanの次の記述である。Ullmanは草書体の略字が現代まで生き残った例を紹介しながら、最後に@に触れてこのように述べる。

@マークもあるが、これは実際はadのことで、uncial dが強調されているのである

There is also the sign @, which is really for ad, with an exaggerated uncial d.*1

 ここで注意すべきなのがuncial dの解釈で、Smithいわくこれはいわゆるアンシャル体のことではなく、古書体学の用語として「丸みを帯びた、傾いた」書体を意味し、「まっすぐな」minuscule dの対立概念とのことである*2。ただいずれにせよ用例が確認されていないので、ここのUllmanの記述は軽率だったということになるだろう。

つづいて質量の単位arrobaの略字が起源という説。これはGiorgio Stabileという人物が「発見」*3した、1536年に書かれた手紙が広くニュースになったことで知られたようだ*4。この手紙はセビリアからローマに、フィレンツェの商人が送ったものとされることから、スペインやイタリアがこぞって@の起源を主張し始める事態となったらしい(Smithも、紹介したブログも指摘していることだが、この手の起源に関する話はしばしば素朴愛国主義的な調子を帯びる)。問題の手紙をみると確かに@は使われており、「1536年に書かれた手紙で、単位arrobaの略字として@が使われている*5」ということ自体は正しい。
しかしここにはいくつか問題がある。まず、この手紙は決して@の初出ではない。単位arrobaの略字というかたちに限っても、これ以前の用例が存在する。さらに重要な点として、その同じ手紙の中で@が別の箇所でも用いられている。手紙の冒頭で、「~日付」ということをあらわすaddìが@ddìというふうに書かれているのである。したがって、@が単位arrobaの略字として使われたことは確かだが、それが起源だとは言えない。

では起源はどこにあるのか。Smithの調査によって見つけられた最古の用例は1391年にフランスで書かれたものであり、それは@ciainnesと書いてanciainnesと読ませるものだった*6。Smithはこのaのまわりを囲むことが、中世の記法においてさまざまな略字を表したチルド記号(ã)と同様の働きをしているとみている。最も代表的なのがここで見られるan/amといったものだが、時代を下ると他にもさまざまな用法が出てくる。たとえばイベリア半島では@oでanno/año、@toでAntonio、フランスでは@rでavoir、@eでautre、あるいは@単体で長さの単位aune(s)といった用例が確認できる*7らしい。
このように、最初期の用例においては@はan/amを中心にさまざまな略字を示す汎用的な記号だった。しかしこの種の略字としての@は17世紀以降あまり使われなくなったようだ。それとは別に発展してきたのが、前置詞を表す記号としての@である。14世紀なかばごろから、イベリア半島では文字の端を、文字を包むように伸ばす、letra cortesana(宮廷風文字)と呼ばれる独特な書体が発達していた。この書体の曲線は基本的に時計回りに構築されているのだが、ラテン語のetの略字は例外で(いまの@同様に)反時計回りにeの周りを囲うように書かれていた。さて、そこに15~16世紀にイタリアの影響で筆記具が改善され、とくに関係の深かったイベリア半島北部の地域の書体の装飾化、草書化がよりすすんだ結果、(スペイン語の接続詞の)eの周りを囲ったような文字からの類推で、もうひとつの一文字前置詞aのまわりも丸く囲われるようになったのではないか、というのがSmithの見立てだ。ともかく、16世紀になるとイベリア半島だけでなくイタリアの商業文書にもこの一文字前置詞を表す@が見られるようになっていた。さきに挙げた1536年の手紙の冒頭の@ddi(=a+di)もまさにこの系統に属する。商業文書において前置詞のaを@と書く習慣は長く残り、20世紀なかばのイタリアでも複式簿記で帳簿をつけるときに貸方欄に@を使っていたらしい*8。18世紀には(アクセントの有無は問わず)àという形が(単位あたりの)値段を表す記号として全欧的に使われていたため、この(フランス式の)値段記号のàが、それ以前から用いられていたイタリア式の@と混同される形で広まっていったのではないか、というのがSmithの考えのようだ。

よくあることかも知れないが、@ひとつとってもその歴史を見てみると意外にややこしく、一言でまとめるのはむずかしい。おそらく、記号として非常に単純な作りをしているため単線的な記述はできないのだろう。特によくわからないのは略字記号としての@と前置詞としての@のあいだにつながりはあるのか、という点である。Smithもこの点は明言していないようなので、ないとも言い切れないがあんまりなさそう、というあたりか。とりあえず巷で言われている起源説はすべて何らかの形で間違っていることは確かだ。略字記号はつながりがよくわからないから除外すると、起源についていえるのは「イベリア半島北部で書体が独特の発展をした結果、前置詞aのまわりが囲まれるようになった形」といったところになるのだろう。

 

 

*1:B. Ullman, Ancient writing and its influence, 1932, p. 187

*2:動画の19分ごろにUllmanが想定していたと思われるタイプの書体が示されている。

*3:発見にかぎかっこをつけたのは、Stabileはけっして未発見の手紙を発掘したのではなく、編集を経て印刷された資料集のなかのひとつに用例を見出したにすぎないからだ。問題の手紙は Documenti per la storia economica dei secoli XIII–XVI, con una nota di Paleografia Commerciale di Elena Cecchi, ed. Federigo Melis, Firenze, Olschki, 1972, p. 214–215 に収録されている。

*4:https://www.theguardian.com/technology/2000/jul/31/internetnews.internationalnews

*5:Stabileはここの@を(おそらくは典拠となる資料集の編者に従って)ヴェネツィアの単位anforaの略字と読んでいる。しかしSmithいわく、この手紙はイタリア語だが筆跡からスペイン人の手によると考えられる点などからスペインの単位であるarrobaと読むべきだという。

*6:Smithはこれが最古だと言い切ることはしないが、技術的観点から13世紀後半より遡ることはないだろうとも言っている。それ以前にはペンの技術的制約により、字を書く時はかならず線を自分の方に引く形(右手で書くので、上から下・左から右という方向)で書かれていたからである。13世紀なかばごろにペンが改良されて反対の方向の描線が可能になったために、@のような形が可能になったようだ。事実、この1391年の例では@の上部、右から左に動く箇所でペンが羊皮紙に引っかかり線が乱れているのが確認できる。

*7:cf. Nicolas Buat & Evelyne Van Den Neste, Dictionnaire de paléographie française, 2011

*8:借方にdaを用いるため、視覚的にわかりやすくしたり、aをdaに書き換えるのを防止するためかもしれないとSmithは述べている。

書体と老眼

B. L. Ullman はその著書 The Origin and Development of Humanistic Script(Edizioni di Storia e Letteratura, Roma, 1960)でゴシック体から人文主義書体への変化の足跡を辿っているが、その中で面白い指摘があったので紹介したい。以下の記述はほぼ全て同書の第一章前半のものである。

Ullman曰く、のちに人文主義書体と呼ばれるようになる書体の最初の痕跡はコルッチョ・サルターティの手によるものに認められるという。この本の第一章ではその点が細かく検討される。
そこで問題となるのが、なぜゴシック体の改革がイタリアから始まったのか、という点だ。というのも、サルターティのような人文主義者が活躍していた地域では比較的端正なゴシック体が生き残っていて、複雑な省略や融合は控えめだったから、一見すると改革の必要は薄かったように思えてしまうのだ。
その疑問に対する回答は人文主義者の活動の性格そのものにある。人文主義者たちは同時代の写本に飽き足らず、古い(主にカロリング・ルネサンス期に作られた)写本を追い求め、読み漁った。これは2つのことを意味する。まず単純な読書量の増大。そして次に、人文主義書体のもとにもなった古い書体(カロリング・ミニュスキュル)と接する機会の増大である。
このような事情から、より読みやすく、より「正統的な」書体が発展していくことになる。

さて、Ullmanはこれに加えてもう一つ面白い仮説を提示している。それは人文主義者の視力の低下がこの動きを後押ししたというものだ。
先に触れたように、人文主義者たちは読書量が増大し、読みにくい書体に悩まされていた。そのことはペトラルカが当時の書体を批判する次のような箇所からうかがうことができる。

[私の書簡集は]あいまいでけばけばしい書体――それは写字生というより、近年の画家のものとでもいうべきで、遠目には楽しいですが、近づくと目を弱らせ、疲れさせるものです。あたかも読むためではない、他の目的のために作られたようで、権威ある文法学者の言うように文字 litera とは「legitera の謂である」*1といわれているのを無視しているかのようです――ではなく、明瞭で自ずから目に入ってき、そこにおいてはいかなる正書法や文法規則も疎かにされていないとあなたも言われるような、そんな字体で書かれることでしょう。

... non vaga quidem ac luxurianti litera - qualis est scriptorum seu verius pictorum nostri temporis, longe oculos mulcens, prope autem afficiens ac fatigans, quasi ad aliud quam ad legendum sit inventa, et non, ut grammaticorum princeps ait, litera « quasi legitera » dicta sit -, sed alia quadam castigata et clara seque ultro oculis ingerente, in qua nichil orthographum, nichil omnino grammatice artis omissum dicas.*2

さらに、ペトラルカは他の箇所で同時代の書体の細かさ、圧縮、過度の省略が目に辛いことをこぼし*3、一方で11世紀の写本をほめている*4という。
先に引用した書簡が書かれたのは1366年で、このときペトラルカは62歳であった。たしかに老眼が気になりそうな年齢である。
同様に、サルターティも1392年、61歳のときに、「大きな字で in littera glossa」書かれたキケロの写本を要求している*5

まあこれは結局、読書量の増大が具体的な問題となって表出してきたにすぎないのだろう。今でこそ老眼鏡が簡単に手に入るが、「1400年台には、書体を改革するほうが眼鏡を改良するより簡単だった」*6というわけだ。とはいえ、いま現在われわれが親しんでいる欧文書体の基礎が、人文主義者たちの老眼を契機に開発されたかもしれないというのは面白い話だ。

さらに、このゴシック体から人文主義書体への変化を遡ること数百年、8世紀にも、60代前半となったボニファティウスが視力の悪化をかこつ手紙を残していることもUllmanは指摘している。
その上で(どこまで本気かわからないが)その一世代後に発展するカロリング・ミニュスキュルもこの不満に由来するのだろうか、という疑問を提示している*7
この仮説を採用すれば、カロリング小文字体はその誕生から復権まで二重に老眼に負うところがあることになる。

*1:cf. DMLBS, s. v., legitera, « littera est quasi legitera, quia legentibus iter praebet »「litteraとはlegiteraの謂である。読者に道を示すからである」, Alcuin, Gram., 855A Ullman曰くペトラルカはプリスキアヌスを引用しているとのこと

*2:Petrarca, Familiarium Rerum, XXIII, 19, 8

*3:Petrarca, Seniles, VI, 5

*4:Petrarca, Fam., XVIII, 3, 9

*5:Coluccio Salutati, Epistolario di Coluccio Salutati, v. 2, ed. Francesco Novati, Forzani e C. Tipografi del Senato, Roma, 1893, p. 386

*6:Ullman, op. cit., p. 15

*7:ibid., p. 13-14, n. 9

'It's Greek to me'再考

 英語の言い回しの一つに It's Greek to me と言うものがある。直訳すれば「これは私にはギリシア語同然だ」とでもなろうが、意味としてはつまり「ちんぷんかんぷんで理解できない」ということになる。この表現の歴史は古く、有名どころではシェイクスピアに以下のような箇所がある。

カッシウス:シセローは何か言ったか?
キャスカ :言った、ギリシア語を喋った。
カッシウス:なんと言ったのだ?
キャスカ :何を言うのだ、それが答えられるくらいなら、二度とお目にはかからぬ。とにかく、解った連中はおたがいに顔を見合わせて、にやにや笑いを浮かべ、首を振っていたが、このおれには、文字どおり、ちんぷんかんぷんのギリシアだった。(福田恆存訳, 「ジュリアス・シーザー」, 『新潮世界文学1シェイクスピアI』, 新潮社, 1968, p.98, 強調引用者)

Cassius Did Cicero say anything?
Casca Ay, he spoke Greek.
Cassius To what effect?
Casca Nay, an I tell you that, I'll ne'er look you i'th'face again. But those that understood him smiled at one another and shook their heads; but for mine own part, it was Greek to me. (Julius Caesar, Oxford University Press, The Oxford Shakespeare, ed. Arthur Humphreys, 1.2, l.275-281, p. 116-117, 強調引用者)

この表現はシェイクスピアの時代にはすでに慣用句と化していたらしい(cf. OED, s.v. Greek, II.8.)。また、これに類した表現は西欧各語に存在し、フランス語ではギリシア語の代わりにヘブライ語だったりする。
さて、このあたりのことは実はすべて柳沼重剛, 「'It's Greek to me'考」(『語学者の散歩道』, 講談社現代文庫, 2008, p.2-14)に述べられている。そこで著者はこの表現にギリシア語が選ばれた理由について考察し、まず表記される文字の違いを挙げたあとに次のように述べている。

ここでいきなり私の独断と偏見を押し付けるのは恐縮だが、典型的な「ちんぷんかんぷんな」ことばとしてここで選ばれる光栄に浴するには、その言語が一方では近寄りがたく難しいと思われていると同時に、他方ではたいへん「すぐれた」「尊敬すべき」ことばだとも思われていなければならないと思うのだ。(p.6-7)

この考えは、この表現がルネサンス期以降、俗語に始まったという暗黙の前提に立っている。しかし、別の本によるとこの表現はラテン語にまで遡ることができるらしい。このブログで紹介されていたが、John Edwin Sandys, A History of classical scholarship, Cambridge University Press, 1903(Internet archive)には次のようにある。

ローマ法研究は12世紀初頭ボローニャで、イルネリウス(1113年ごろ)によって復興された。イルネリウスは講義でローマ法について解説しただけではなく、短い注釈(「欄外注 glosses」として知られるもの)の形で語学上の問題についても説明する習慣を導入した。[...]13世紀にはイルネリウスの例は同様にボローニャで教鞭をとったフィレンツェのアックルシウス(1260年没)によって受け継がれた。公開講義の折、ユスティニアヌスホメロスを引用している箇所に出くわすと、彼はいつも次のように言ったと伝えられている。「これはギリシア語であり、読むことができない Graecum est, nec potest legi」この表現は口頭での講義にのみ用いられたと見られ、その言い換えである「読まれない non legitur」は「これはギリシア語であるから、ここでは解説されない」以上のことは意味していないはずである。この表現は彼の『学説彙纂』の翻訳には見られない。アルベリコ・ジェントリ(1611年没)が示したように、その翻訳においてアックルシウスはテクストに出てきた数多くのギリシア語を適切に説明しているのである。しかしながら、もし先の表現がアックルシウスによって用いられたのだとすれば、それはこの学識ある法学者がギリシア語に疎かったからではなく、ギリシア語の知識に対する世間の目が彼を異端の誹りにさらす恐れがあり、それを避けるほうが賢明だと判断したからであろう。

Early in the twelfth century the study of Roman Law had been revived at Bologna by Irnerius (c. 1113), who, besides expounding the Roman code in lectures, introduced the custom of explaining verbal difficulties by means of brief annotations known as 'glosses'. [...] In the same century the example of Irnerius was followed by Accursius of Florence, who also taught at Bologna (d. 1260). Whenever in his public lectures he came upon a line of Homer quoted by Justinian, tradition describes him as saying: Graecum est, nec potest legi. The phrase would naturally occur in his oral teaching only, and its alternative form, non legitur, need mean nothing more than, 'This is Greek, and is not lectured upon '. It has not been found in the published Glosses of Accursius, who, in his translation of the Pandects, as was shown by Albericus Gentilis(d. 1611), correctly explains the large number of Greek words occurring in the text. It has been suggested, however, that if the phrase was used at all by Accursius, it was not due to any ignorance of Greek on the part of this learned lawyer, but to the fact that the public assumption of a knowledge of that language would have laid him open to an imputation of heresy which he deemed it prudent to avoid. (p.582-583, 強調原著者)

要約すると、この表現は13世紀の(ギリシア語の知識を持つ)ローマ法学者によって、異教的と言われないための予防線として用いられたと言われている。もちろん、現在の表現がここに直接由来するという証拠はない。しかし、アックルシウスのギリシア語に対する「無知」はルネサンス期の人文主義者たちから批判を受けたらしいので、可能性はあるように思う。もしそうならば、柳沼重剛の推測とはやや異なり、ギリシア語が異教の言葉として警戒されていたからこそ、「ちんぷんかんぷん」という予防線が張られたのだということになるだろう。

メトキテス『雑録と格言』

 13-14世紀のビザンツにメトキテス(Theodore Metochites, 1270-1332)という文人がいた。そのエッセイ集ともいうべき著作がこのSemeioseis Gnomikaiで、あえて和訳すれば『教訓論集』とでもなりそうだが、タイトルではブリタニカの記述に従った。この作品だが、希英対訳版の第一巻が2002年にスウェーデンヨーテボリ大学から出版されている。まえがきを読むと全四巻の予定らしいが、管見の限りそれ以来続きは出ていないようで、頓挫してしまったのではと思わされる。ともかく、この著作は全部で120のエッセーからなるのだが、第一巻についている目次を見るだけでもなかなか面白そうな題名が並んでいる。ここではひとまずその題名の中から面白そうなものを訳してみよう。

1. 序言。もはや何も新しいことは言えないということが示される。
4. 誰もが知的空しさに苦しんでいること
6. 誰もがみな慣れ親しんだものを好むこと
8. 賢い人間はみな皮肉屋でウイットに満ちていること。とくにプラトンソクラテスについて。
9. 自分の考えを述べるのは不可能だということ
10. 賢い人間はみな先人を軽んじていること。プラトンアリストテレスについて。
27. 人間の生への哀歌
28. 「悲しみから免れて人生を送るものはいない」という物言いについて、また、人生の転変(著者のみに降りかかったものも含む)について
31. 肉体のうちにあるものは現実の完璧な理解を得られないこと、また、このことに関する、酩酊してはいるが完全に泥酔はしていないものから得られる例証
34. 無知で愚昧なもののうちにも、教育を受けたものに劣らず幸福な生活を送り、自己評価の高いものが居るということ
41. 人はふつう過去を思い焦がれ、それを熱心に思い出すこと
54. 人はそれぞれの間で矛盾したことを言い合うだけでなく、しばしば自分自身とも矛盾するということ
55. 正しく公正な判断を行うことは人には不可能だということ
57. 財産があって成功した人を軽蔑し、哲学的態度を装う人がいるが、それは自身それを得ることができず、妬ましいからだということ
58. 人間にとって生まれたほうが良いか生まれないほうが良かったかという問題。また、生まれたほうが良いということについて。
59. ひとがしばしば自分自身について語るということ
(p. 4-19)

 これらの題名から伝わってくるのはメトキテスの懐疑的態度だ。事実、懐疑主義がそう荒唐無稽でもないということをのべるタイトルもある。メトキテスにとって、人生や思想を扱うことは人間の能力を遥かに超えることなのだろう。
そのなかでも白眉というか、衝撃的なのは、なにより冒頭の序言であろう。そこでは、あらゆることはすべてすでに偉大な先人によって扱われているのだから、今を生きるわれわれには何も言うべきことなどないということが示される。

(なにかを述べる能力があったとして)一体それをなにに使えというのか?じっさい、あらゆることはすでに誰かが取り組んでいて、われわれが今更声を上げるべき何ものも残されていないのだ。研究するのにもっとも適しているといえる、宗教的事柄でもそうだし、他の分野の、世俗的知識に属するものでもそうだ。[...]人が心動かされるようなテーマについて、何も新しいことなど言えない。誰かによってすでになされ、聞かれたことしか残されていないのだ。(p. 22-25)

しかし、メトキテスはそれでもこの著作集を出版した。その理由は次のように説明される。

しかしいま私としては、短い覚書や断片的なノートを出版するのは、あるいは全く由なしとはしないのではないか、という考えを持つに至った。そこには今に生きるものとしての私が折々に考え、結論づけたことをそのときどきに書きつけてあるのだが、 それをきいた人はたいてい同意し、その考えを認めることで裏付けてくれるのではないかと思われる。というのは読者たちも、思い巡らせるうちにこのようなことを心に考え貯めていただろうからである。 (p. 24-27)

この箇所から読み取ることができるのは、「わたし」が考え、思い巡らしたことを記述することに対する価値付けである。ここではあくまでも消極的に、仄めかすように言われているだけだが、メトキテスは自分が考えたことを記すことに価値を認めるに至っている。 それは、この後に続く記述のように、今生きる人々に課されている沈黙そのものについて語るということも含まれる。このような記述は、古代人と比肩するとまでは言えないにしても、同時代の人びとの同意は少なくとも得られるものだとされる。たとえ古代の優れた人びとによってあらゆる問題が論じ尽くされているにしても、いま、ここでわたしが考えることには何がしかの価値がある、あるいはそのような自負があったのかもしれない。

Theodore Metochites on Ancient Authors & Philosophy: Semeioseis Gnomikai 1-26 & 71 (Studia Graeca Et Latina Gothoburgensia, 65)

Theodore Metochites on Ancient Authors & Philosophy: Semeioseis Gnomikai 1-26 & 71 (Studia Graeca Et Latina Gothoburgensia, 65)

Voyage

この愛想のいい土着民が教えてくれた言葉を私が反復しようとしたとき、その土着民は叫んだ。「おやめなさい。ひとつの言葉が使えるのは一度だけです」。
ボッツァロ『旅』(アントワーヌ・コンパニョン著, 『第二の手、または引用の作業』, p.127, 今井勉訳)


この文章はもともとジャン・ポーランが『タルブの花』でエピグラフとして引用していて、コンパニョンはそれを孫引きしている。しかしこのボッツァロなる人物については検索してみても全く情報が得られない。コンパニョンにしても一応出典は示しているのだが、ポーランの示したものの丸写しで、「ポーランの『タルブの花』に引用されている」と予防線を張っている。おそらくコンパニョンも原典に辿りつけなかったのだろう。それで調べている内に出くわした情報だが、ポーランはしばしば偽の引用をでっち上げたらしい[pdf]。仮にこのエピグラフも偽の引用で、そもそも出典など存在しないのだとすると面白い。というのもポーランの『タルブの花』はまさに文学や言葉によそから持ってきたものを持ち込むことについての文章だからだ。この本もなかなか一筋縄ではいかず、安直な読解を許さない政治性を感じさせるものだったが、そこにさらに新たなねじれを持ち込んでくれそうだ。

まあそんなややこしい話は脇においておくとしても、この一文の喚起するイメージは非常に鮮烈なものがある。なんだかこの文章を元にして短編のひとつくらいでっち上げられそうだ。もしそんなことが出来る人がいたら、ぜひボッツァロ著『旅』として世に放ってほしい。ますます事態がややこしくなって面白いだろう。

ところで偽の引用からなるエピグラフというと、思い出すのはスタンダールだ。彼の『赤と黒』も各章にエピグラフが付いていたが、あれもかなりの量作者によるでっち上げらしい。やはりエピグラフというのは一文だけ切り取ってくるものだから、思いついたはいいもののうまく作品のなかに落とし込めない決め文句なんかを使うのに都合がいいのかもしれない。こうしてみると偽のエピグラフというのは探せばいろいろありそうだ。それをまとめてみたり、そこからふくらませた短篇集なんてできたら読んでみたい。


第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)