ツイッターの先駆者たち

『異常 アノマリー』の作者で現ウリポ会長のエルヴェ・ル・テリエの本 Les Amnésiques n'ont rien vécu d'inoubliable 『健忘症者は忘れ難きを生きず』を読み始めた*1。この本は À quoi tu penses ? (いまなに考えてる?)という問いかけに対してJe pense que (……と思った)から始まる短文で答えるという形式だけを延々と繰り返している*2。注にも書いたとおり初版は1997年なのだが、これがいま見るとTwitter*3にしか見えない。Twitterも投稿欄に似たような問いかけが表示されていて、個々の投稿はすべてその質問に対する返答として構成されていた*4。じっさい、書かれている内容もわざわざそれだけを発展させてまとまった文章にするほどでもない思いつき集成といった雰囲気で、Twitter以前のTwitterという趣がある。以下、最初の方からいくつか試しに訳してみよう。なお、性質上かなり大幅な意訳をしたものもある*5

 

夜にコーヒー飲むと寝つきが悪くなるけど、毎回けっきょく飲んでしまうな、と思った。

Je pense que j'ai du mal à dormir quand je prends un café le soir, et pourtant, c'est chaque fois pareil, j'en prends un.

 

自分がいつか死ぬということを理解してから、その前に歳をとるフェーズがあるということを理解するまでかなりの年月がかかったな、と思った。

Je pense qu'il s'est passé plusieurs années entre le moment où j'ai compris que j'allais mourir et celui où j'ai compris que j'allais d'abord vieillir.

 

芋虫って、いつか自分が蝶になるとかぜんぜん考えてないんだろうな、と思った。

Je pense qu'aucune chenille ne se doute qu'elle sera un jour papillon.

 

絶対音感はあるのに絶対臭感も絶対視覚も、絶対性感もないな、まあそもそもあったとしてどういうものかもわからないけど、と思った。

Je pense que l'oreille absolue existe, mais pas le nez absolu, ni l'œil absolu, ni même le sexe absolu, et au demeurant, je me demande ce que ça pourrait bien être si ça existait.

 

1548年には誰も1549広まるキリスト教を知らなかったんだな、と思った*6

Je pense qu'en 1514, personne n'aurait pu imaginer 1515 Marignan.

 

めちゃくちゃ線の細い女の子を見てると自分が極太ゴシックになった気がするな、と思った*7

Je pense que certaines filles maigres comme des clous me rendent marteau.

 

食べられないキノコなどないが、一度しか食べられないキノコはある、と思った*8

Je pense que tous les champignons sont comestibles, certains une fois seulement.

 

素朴な日常ものから言葉遊びまで含まれているのがTwitter的だと感じる所以かもしれない。その言葉遊びにしても、紋切型表現の再解釈や言語表現そのものの異化といったウリポ的手つきは、Twitterでは非常にありふれたものとなっている。1997年に出版された時はどのように読まれたのかと思うが、いまこの本を読んでTwitterだと感じないのは難しい。

頭からぜんぶ通読したわけではないので、中盤や終盤ではまた性質が変わっているのかもしれない*9が、そこは未確認。読んでいるとついこれはどう訳そうかとか考えてしまってなかなか進まない。勘所がつかめないのも気になるし……まあ、空いた時間にTwitterを見る代わりに読んでいきたい。

*1:読んだのはLe Castor Astral, 2017の文庫版。初版は同じ出版社から1997年にでているらしい。

*2:この形式はジョー・ブレイナード『ぼくは覚えている』やジョルジュ・ペレック『ぼくは思いだす』を引き継いでいるようだ。題名はその伝統を逆手に取ったのだろう。このあたり、I remember から What are you doing? へ、という線を引けそうな気がする。

*3:「かつてのTwitter」と言ったほうがいいのかもしれない。したがってXではない。

*4:この問いかけは2009年11月に「What are you doing? いまなにしてる?」から「What's happening? いまどうしてる?」に変わったらしい。二人称の問いかけではなくなったため、本書との類似性はむかしの方が強かったとは言えそうだ。

*5:本書はいくつかの言語に翻訳されているが、その際どうしても書き換えねばならない文章もあった、ということが著者による前書きで書かれている。

*6:原文の1515 Marignanは1515年マリニャーノの戦いのこと。若きフランソワ1世がイタリア戦争で挙げた初手柄だが、1515 Marignanというのはフランスで歴史教育を受けた人なら(それがなんなのかはわからなくとも)誰でも知っている年号という前提をもとにしたネタ。知名度的には1192作ろう鎌倉幕府かなと思ったが、どうも最近は鎌倉幕府の成立時期をもう少し早めに見るようになっているらしいので、時代的にも近いこっちにしてみた

*7:原文は文字通りには「釘のように痩せた女の子を見ると自分が金槌になった気がする」。「maigre comme un clous 釘のように痩せた」が定型的な慣用句で、そこに使われている「clou 釘」をその意味のまま読むのが面白み。

*8:これはまったく同じ発想をTwitterで見たことがある。

*9:全体で200ページ強、いちページあたり4、5個の文章がある。副題が Mille réponses à la question « À quoi tu penses ? » なのでちょうど1000個なのかも。

L'usage du monde

ニコラ・ブーヴィエ『世界の使い方』(Nicolas Bouvier, L'usage du monde)のタイトルはモンテーニュ『エセー』からの引用になっている。『エセー』3巻11章でモンテーニュはまず最近フランスで暦が変わったことに触れ、一年というごく基本的な時間の単位がいまだに正確に確定できていないということを述べたあと、こう続ける:

Je resvassois presentement, comme je fais souvent, sur ce, combien l'humaine raison est un instrument libre et vague. Je vois ordinairement, que les hommes, aux faicts qu'on leur propose, s'amusent plus volontiers à en chercher la raison, qu'à en chercher la verité : Ils passent par dessus les presuppositions, mais ils examinent curieusement les consequences. Ils laissent les choses, et courent aux causes. Plaisans causeurs. La cognoissance des causes touche seulement celuy, qui a la conduitte des choses : non à nous, qui n'en avons que la souffrance. Et qui en avons l'usage parfaictement plein et accompli, selon nostre besoing, sans en penetrer l'origine et l'essence. Ny le vin n'en est plus plaisant à celuy qui en sçait les facultez premieres. Au contraire : et le corps et l'ame, interrompent et alterent le droit qu'ils ont de l'usage du monde, et de soy-mesmes, y meslant l'opinion de science. Les effectz nous touchent, mais les moyens, nullement. *1

よくつらつらと考えることをいまもまた思い返していたのだが、人間の理性というものはいったいどれほど勝手きままでふらふらしたものなのだろうか。目の前になにか物事が提示されると、人間はその物事の真のあり方を考えるのではなく、どうしてそうなったのかという理由の方ばかり考えているように思える。前提を飛び越して結果ばかりこねくりまわし、物事そのものは放置して原因に飛びついている。なんとも愉快な原因屋どもだ。物事の原因を知るなどということは、その物事を司る存在にのみ関係があるのであって、われわれ人間のような、ただ起きた物事を受け取るしかないような存在には関与し得ない。それに、あえて物事の起源や本質などに踏み込まずとも、われわれだって必要に応じてじゅうぶん申し分なく物事を活用できている。酒だって、その本来的特質に通じている人のほうがおいしく飲めるということもない。それどころか、本来は世界を、あるいは自己自身を、それそのものとして好きに活用できるはずなのに、学問が言っていることなどをごっちゃにしてしまって、肉体なり精神なりがその権利を邪魔して歪めている。われわれに関係あるのは結果であって、過程はどうでもいい。

どうにも日本語にしづらい上に版ごとの微妙な違いも多く、細かい点についていろいろ言いたいことがでてくる個所だが、それはさておきブーヴィエの L'usage du monde  はここを引用しているわけだ。ではそのタイトルがどのような意味づけをされているのかということはそれこそ作品そのものを受け取って考えるべきで、必要以上に「起源や本質」に踏み込むのは筋違いというものかもしれない。ともあれ、ブーヴィエの訳書などをみてもあまり指摘されていないようなので、ひとまず備忘的に記しておく。

*1:Les Essais, III, XI, éd. par Jean Balsamo, Michel Magnien et Catherine Magnien-Simonin, « Bibliothèque de la Pléiade », Gallimard, 2007, p. 1072 強調引用者

le sujet surpasse le disant

スタンダールはその自伝的作品、『アンリ・ブリュラールの生涯』の最終章で、自分が経験した愛について語ることのむずかしさを訴えている。自分が最も愛するものについて語ることの困難さ・不可能性というテーマはのちにバルトが取り上げることでも有名だが、スタンダールはそれをたとえばこのような形で表明する。

いったいどうすれば良いのか? 常軌を逸した幸福をいかに描けば良いのか?
読者はだれかを気が違うほどに愛したことがあるだろうか? その生涯で最も愛した女性と一夜を共にするという幸福を経験したことがあるだろうか?
ああ、もう続けることができない、主題が語り手を越えてしまっている。

Quel parti prendre ? comment peindre le bonheur fou ?
Le lecteur a-t-il jamais été amouroux fou ? A-t-il jamais eu la fortune de passer une nuit avec cette maîtresse qu'il a le plus aimée en sa vie ?
Ma foi, je ne puis continuer, le sujet surpasse le disant.

この引用個所のなかでもとくに最後のフレーズは、崇高さに直面した時の筆者の態度をよく示す一文として知られ、引用されているように思う。

ところで、このフレーズには元ネタがある。さかのぼること二百数十年、1545年のリヨンで、イタリア語版の『俗事断片詩集(カンツォニエーレ)』がジャン・ド・トゥルヌによって出版された(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k10568287)。(イタリア語で書かれた!)序文で編者は、その本をフランスにおけるペトラルカの後継・発展者と目されていたモーリス・セーヴにささげるのだが、そこでセーヴが(『カンツォニエーレ』で愛の対象とされた)ラウラの墓とされるものを見つけた時のことを記している。その序文の末尾に、ラウラの墓発見の報を聞いて立ち寄ったフランソワ一世がしたためたエピタフが伝えられている。その後半は次のようになっている。

おお高貴な魂よ、かくも高く戴かれ
誰があなたを讃えられよう、口をつぐむことのほかに?
言葉はうまく出てこないのだから
対象が語り手を凌駕するときには

O gentill'Ame, estant tant estimee,
Qui te pourra louer, qu'en se taisant ?
Car la parolle est tousiours reprimee,
Quand le subiect surmonte le disant.

このエピタフはそれなりに知られていたようで、シャトーブリアンも『墓の彼方からの回想』中でラウラの墓を訪れた際に引用しているらしい。スタンダール自身、『カンツォニエーレ』にはかなり親しんでいたようなので*1、このエピタフのことは知っていただろう。正確な引用にはなっていないところなどに鑑みるに、どちらかといえば無意識的にかつて目にしたフレーズを口にしたというところだろうか。

ちなみに、このエピタフが本当にフランソワ一世の手によるものなのかという点にも議論が存在するらしく、例えば20世紀のモーリス・セーヴ研究の端緒を開いた研究者であるソーニエは、これをセーヴの作だと主張している。たしかに、このエピタフにうかがえる強く新プラトン主義的な雰囲気はモーリス・セーヴの作品に近いものがあるかもしれない。いずれにせよ、これが16世紀フランスにおいてペトラルカの精神を引き継ぎ(フランス語文学の中で)発展させようとした人によるものであることは間違いない。そう考えると、スタンダールが愛を語ることの不可能性を訴えるときにこのフレーズを用いたことは、ロマン主義や、ひいては20世紀のバルトに至るまでの、ペトラルキスモや新プラトン主義の系譜を浮かび上がらせるようにも思える。

 

*1:« Le premier sonnet de Pétrarque, qui me fait pitié, fait rire beaucoup de gens secs », Molière, Shakespeare, la Comédie et le Rire(「ペトラルカの第一ソネットは私には憐れみをもよおさせるのだが、冷淡なひとびとにとっては笑いの種となる」『モリエールシェイクスピア、喜劇と笑い』)参考:ペトラルカ 『カンツォニエーレ 俗事断片詩集』 池田廉訳 名古屋大学出版会 1992年 p. 565

Virgil か Vergil か

ローマ最大の詩人、ウェルギリウス(Vergilius)の名前は西欧諸語に俗語化されると最初の e が i に変わることがある。例えば英語ではVirgil、フランス語ではVirgileといったつづりが一般的だ。この問題について、David Scott Wilson-Okamura, Virgil in the Renaissance, Cambridge, Cambridge University Press, 2010が冒頭の一章を割いて議論を展開しており、なかなか興味深かったので紹介してみたい。

さて、このつづりの変化がそもそもなぜ起きたのかという点は解明が難しいが、さまざまな可能性が挙げられている。
ラテン語としてよりなじみのある単語(vir=男、人)に引きずられたから
ウェルギリウスがかつてつけられていたあだ名Partheniasからvirgoを連想したから
ウェルギリウスの母の伝説的二つ名virga laureaやvirga populeaからの連想*1
と、まさに諸説紛々といった様相を呈している。この誤りは早くも4世紀に始まるとも言われているが、具体的な写本などが挙げられているわけではないので確認できなかった。ともかくある時点でVergiliusがVirgiliusとつづられた写本が出現し、以降この詩人の名前は混乱状態のまま伝えられ、そのまま俗語化したということらしい。

しかし本書が扱うのはその起源ではない。問題はなぜその誤りが現在に至るまで残っているのか、という点にある。というのも、この問題についての解答は15世紀末には提示されていたからである。
その解答はアンジェロ・ポリツィアーノの手による。彼はその著書『雑纂』中のある章(第77章)で、このローマの大詩人の名前はVergiliusとつづられるべきであると結論付けていたのだ*2ポリツィアーノの議論の仕方はそれ自体興味深いもので、とくに碑文のような非文献的資料を活用しているところが目を引く。

しかし、ポリツィアーノのこのような議論にもかかわらず、以降もVirgiliusという誤ったつづりは存続する。著者ウィルソン=オカムラはその理由をポリツィアーノが先の議論を出版した『雑纂』という形式にあるとみる。
中世以来、古典的テクストについての議論を展開するには、そのテクストに併置されたコメンタリーという形式を用いることが一般的だった。とくにウェルギリウスルネサンス期においてもラテン詩人の筆頭という地位は揺るがず*3、そのコメンタリーの需要も大変なものだった。原著では当時の出版状況をかなり詳細に検討しているがここでは割愛する。重要なのは、そういったコメンタリーのなかでも影響力(重版回数がその指標とされている)に差があり、しかも特にローマ末期のものが多く重版されているということだ。ウェルギリウスのどの作品を見ても、最も多く重版されたのはセルウィウス*4のもので、これは四世紀末から五世紀に書かれ、中世を通じて読み継がれてきたものだ。ルネサンス期といえども、中世以来読み継がれてきた注釈書は依然強い影響力を持っていたことがうかがえる。ほかにも上位に来るのはドナトゥスやプロブスなど、古代末期の注釈家の手によるものだ(ドナトゥスはルネサンス期に再発見されたテクストだが)。

では、同時代の人文主義者たちの手による注釈はどうだったか。たとえばクリストフォロ・ランディーノはウェルギリウスの『アエネーイス』に対する独特な新プラトン主義的・寓意的解釈(アエネーアースの旅を至高善に至る道のりとし、ディドーの逸話をその過程で乗り越えるべき(肉欲ではなく)権勢欲をあらわすとするなど*5)で知られるが、そのコメンタリーは15世紀末をピークにそれほど重版されず、大きな影響力は持ちえなかった。他方、同じ同時代でもバディウス・アスケンシウス(Badius Ascensius)のものは、特筆すべき独創性を持たないにもかかわらず、豊富な文法的注釈やほかの注釈家の引用が幸いしたのか16世紀を通じて重版されている。けっきょく市場を支配するのは読みの独創性よりも、古典的権威か、あるいは需要への一致ということなのだろう。従って、ポリツィアーノの『雑纂』もまた厳しい立場に置かれざるを得ない。文献学的問題を扱った短い文章を集めた本はあまりに専門家向け過ぎて、広い影響力を獲得することはできなかった。

以上はいわば消極的な理由だが、さらに積極的な理由もある。ポリツィアーノの主張に真っ向から異を唱えるコメンタリーが出現したのだ。ジョヴァンニ・ピエリオ・ヴァレリアーノ(Giovanni Pierio Valeriano)のCastigationes et variantes Virgilianae lectionis(1521)である。この本はいままでのコメンタリーと違い、純粋に文献学的な問題のみに論点を絞ったところに特徴があるらしい。つまりウェルギリウスの書いたことの文化的背景や解釈には踏み込まず、ウェルギリウスが「何と書いたか」という問題のみを扱ったのだ。
問題となるのは『農耕詩』末尾の四行である。そこにはこのような詩文が現れる(引用はヴァレリアーノの本に基づく(ただしWilson-Okamura本からの孫引き)。

Illo Virgilium me tempore dulcis alebat
Parthenope studiis florentem ignobilis oci:
Carmina qui lusi pastorum: audaxque iuuenta
Tityre te patule cecini sub tegmine phagi. (Geo. 4.563-566)

見てわかるように、ここには作者である詩人の名前が出てくる*6。したがって作者の名前を決定することが問題となるわけだ。ここで Virgilium という形が採用されていることからわかる通り、ヴァレリアーノはポリツィアーノの議論を参照しながらも、詩人の名前はVirgiliusだと結論する。その論拠はいくつかある。まず、ある古い写本では確かに詩人の名前がVergiliusと書かれている。しかしその写本では本来 i とともに書かれるべき単語が e を使って書かれるという事態が頻発している。したがってある時代に単語中の i が e に置換されるという現象が発生したと考えられる。実際、ワッロが指摘するように、ローマの神メルクリウスも元はミルクリウスという名前だったというではないか。また、碑文の中にもVirgiliusというつづりを持つものがある。

以上がヴァレリアーノの主張である。残念ながらこの結論は誤っていたのだが、ヴァレリアーノのコメンタリーは圧倒的影響力を持った。ポリツィアーノ同様ヴァレリアーノもまたメディチ家の庇護下にあったが、時代が下ったことでその権勢がさらに大きくなっていたという政治的変化も無視できない。今や教皇の座はメディチ家の人間によって占められ、そこに献呈されたヴァレリアーノの本は序文で海賊版を作るものは破門に処されると警告している。にもかかわらず(だからこそ?)ヴァレリアーノのコメンタリーはパリやリヨンで海賊版が出版され、1586年に至るまで重版が繰り返される。

 けっきょくポリツィアーノの議論はふさわしい影響力を得ることなく、Virgiliusというつづりは存続する。その外的要因は上に挙げたようなことなのだが、そこにはまたラテン語というものに対する態度そのものも関わってきているのではないか、と著者は最後に指摘する。それを象徴的に示すのがフランソワ・デュボワ(François Dubois)の書簡だ。そこで彼はさいきん多くのものがポリツィアーノの顰に倣い、あたらしい書き方でラテン語を書いていると述べる。しかし、最後には「習慣が新奇さに打ち克った Sed novitatem vicit consuetudo」と言う。著者いわく、この表現はポリツィアーノとデュボワのラテン語に対する態度の違いを示している。ポリツィアーノは中世のラテン語を認めず、古典古代のものこそ「正しい」ラテン語だとみなす。したがって、いまどれだけ多くの人がVirgiliusとつづっていようと、古典古代にVergiliusと書かれていたならそれこそが正しい。この態度は、いわばラテン語を死語として扱い、その変革を認めない立場だといえる。一方のデュボワは先の書簡で「習慣」と言っていることからも分かる通り、ラテン語をいまなお変化を続ける生きた言語と捉えている。VirgiliusかVergiliusかという問題は、このようなラテン語に対する態度の違いを写し出すものでもあった……というのがウィルソン=オカムラの結論である。

結論部分はより発展的議論への接続が可能だと思う(ポリツィアーノラテン語観は古さと新しさが錯綜しており、ルネサンスにおける歴史意識の問題を感じさせる)が、ウェルギリウスの名前の表記がラテン語を対象にあらわれた歴史意識の違いを背景に持つというのは魅力的な見立てだ。ウェルギリウスの名前の綴り一つとっても、エピソード的な問題に見えて意外と広い射程を持つようで興味深い。

*1:これら原因と目された逸話類はおもにDonatusの『ウェルギリウス伝』に由来するようだ。それについては紹介している本の著者、ウィルソン=オカムラによる英訳がインターネット上に公開されている。Donatus, Aelius. Life of Virgil. Trans. David Scott Wilson-Okamura. 1996. Rev. 2005, 2008. Online. Internet. Available HTTP: http://virgil.org/vitae/ (最終閲覧日時 2019年5月3日

*2:1489年版(おそらく初版)がInternet Archive上で閲覧できる https://archive.org/details/ita-bnc-in1-00000651-001/ 

*3:純粋な出版点数などからみると人気一位はオウィディウスだったかもしれないが、叢書類を出版するときなどはまずウェルギリウスからというのが多かったらしく、格としては筆頭の地位は確かだったようだ。また教育現場での採用率も高かったらしい。

*4:先に挙げたドナトゥスの一世代上にあたり、『ウェルギリウス伝』も、原型は多くの部分がセルウィウスの手によるものだと考えられている

*5:この読みには『神曲』の読書体験が影響しているらしく、ある種のアナクロニスムが指摘されていた。この問題と人文主義者の歴史意識から現代の西洋古典学における「理論」の問題に触れた論文があった(Craig Kallendorf, "Philology, the Reader, and the Nachleben of Classical Texts," Modern Philology, 92, 1994, p. 137-156)

*6:ちなみにいま問題なのは二語目のVirgiliumだが、それ以外の箇所も現在標準とされるテクストとは少しズレがある。

@の起源

いまやメールアドレスなどに欠かせない記号である@だが、その起源についてはどうもはっきりしないというか、正直うさんくさい話がごろごろしている。この問題について古書体学者のMarc H. Smithがまとめていたので、ここで紹介してみたい。詳しい報告のようすは以下に動画としてあげられている他、この内容を簡単に文章にまとめたものもある(Marc H. Smith, « L'arobase du XIVe au XXIe siècle », Graphê, 55, 2013, p. 6-10)。またこれらの情報はこのブログ記事を通して知ったので、併せて紹介しておく。

www.youtube.com

 

まずは既存の説を検討するところから始めよう。ひとつめはラテン語の前置詞adの略字に由来するという説だが、これについてはそのような用例は確認されていないということに尽きる。この説の元になっているのは前回の記事で扱ったUllmanの次の記述である。Ullmanは草書体の略字が現代まで生き残った例を紹介しながら、最後に@に触れてこのように述べる。

@マークもあるが、これは実際はadのことで、uncial dが強調されているのである

There is also the sign @, which is really for ad, with an exaggerated uncial d.*1

 ここで注意すべきなのがuncial dの解釈で、Smithいわくこれはいわゆるアンシャル体のことではなく、古書体学の用語として「丸みを帯びた、傾いた」書体を意味し、「まっすぐな」minuscule dの対立概念とのことである*2。ただいずれにせよ用例が確認されていないので、ここのUllmanの記述は軽率だったということになるだろう。

つづいて質量の単位arrobaの略字が起源という説。これはGiorgio Stabileという人物が「発見」*3した、1536年に書かれた手紙が広くニュースになったことで知られたようだ*4。この手紙はセビリアからローマに、フィレンツェの商人が送ったものとされることから、スペインやイタリアがこぞって@の起源を主張し始める事態となったらしい(Smithも、紹介したブログも指摘していることだが、この手の起源に関する話はしばしば素朴愛国主義的な調子を帯びる)。問題の手紙をみると確かに@は使われており、「1536年に書かれた手紙で、単位arrobaの略字として@が使われている*5」ということ自体は正しい。
しかしここにはいくつか問題がある。まず、この手紙は決して@の初出ではない。単位arrobaの略字というかたちに限っても、これ以前の用例が存在する。さらに重要な点として、その同じ手紙の中で@が別の箇所でも用いられている。手紙の冒頭で、「~日付」ということをあらわすaddìが@ddìというふうに書かれているのである。したがって、@が単位arrobaの略字として使われたことは確かだが、それが起源だとは言えない。

では起源はどこにあるのか。Smithの調査によって見つけられた最古の用例は1391年にフランスで書かれたものであり、それは@ciainnesと書いてanciainnesと読ませるものだった*6。Smithはこのaのまわりを囲むことが、中世の記法においてさまざまな略字を表したチルド記号(ã)と同様の働きをしているとみている。最も代表的なのがここで見られるan/amといったものだが、時代を下ると他にもさまざまな用法が出てくる。たとえばイベリア半島では@oでanno/año、@toでAntonio、フランスでは@rでavoir、@eでautre、あるいは@単体で長さの単位aune(s)といった用例が確認できる*7らしい。
このように、最初期の用例においては@はan/amを中心にさまざまな略字を示す汎用的な記号だった。しかしこの種の略字としての@は17世紀以降あまり使われなくなったようだ。それとは別に発展してきたのが、前置詞を表す記号としての@である。14世紀なかばごろから、イベリア半島では文字の端を、文字を包むように伸ばす、letra cortesana(宮廷風文字)と呼ばれる独特な書体が発達していた。この書体の曲線は基本的に時計回りに構築されているのだが、ラテン語のetの略字は例外で(いまの@同様に)反時計回りにeの周りを囲うように書かれていた。さて、そこに15~16世紀にイタリアの影響で筆記具が改善され、とくに関係の深かったイベリア半島北部の地域の書体の装飾化、草書化がよりすすんだ結果、(スペイン語の接続詞の)eの周りを囲ったような文字からの類推で、もうひとつの一文字前置詞aのまわりも丸く囲われるようになったのではないか、というのがSmithの見立てだ。ともかく、16世紀になるとイベリア半島だけでなくイタリアの商業文書にもこの一文字前置詞を表す@が見られるようになっていた。さきに挙げた1536年の手紙の冒頭の@ddi(=a+di)もまさにこの系統に属する。商業文書において前置詞のaを@と書く習慣は長く残り、20世紀なかばのイタリアでも複式簿記で帳簿をつけるときに貸方欄に@を使っていたらしい*8。18世紀には(アクセントの有無は問わず)àという形が(単位あたりの)値段を表す記号として全欧的に使われていたため、この(フランス式の)値段記号のàが、それ以前から用いられていたイタリア式の@と混同される形で広まっていったのではないか、というのがSmithの考えのようだ。

よくあることかも知れないが、@ひとつとってもその歴史を見てみると意外にややこしく、一言でまとめるのはむずかしい。おそらく、記号として非常に単純な作りをしているため単線的な記述はできないのだろう。特によくわからないのは略字記号としての@と前置詞としての@のあいだにつながりはあるのか、という点である。Smithもこの点は明言していないようなので、ないとも言い切れないがあんまりなさそう、というあたりか。とりあえず巷で言われている起源説はすべて何らかの形で間違っていることは確かだ。略字記号はつながりがよくわからないから除外すると、起源についていえるのは「イベリア半島北部で書体が独特の発展をした結果、前置詞aのまわりが囲まれるようになった形」といったところになるのだろう。

 

 

*1:B. Ullman, Ancient writing and its influence, 1932, p. 187

*2:動画の19分ごろにUllmanが想定していたと思われるタイプの書体が示されている。

*3:発見にかぎかっこをつけたのは、Stabileはけっして未発見の手紙を発掘したのではなく、編集を経て印刷された資料集のなかのひとつに用例を見出したにすぎないからだ。問題の手紙は Documenti per la storia economica dei secoli XIII–XVI, con una nota di Paleografia Commerciale di Elena Cecchi, ed. Federigo Melis, Firenze, Olschki, 1972, p. 214–215 に収録されている。

*4:https://www.theguardian.com/technology/2000/jul/31/internetnews.internationalnews

*5:Stabileはここの@を(おそらくは典拠となる資料集の編者に従って)ヴェネツィアの単位anforaの略字と読んでいる。しかしSmithいわく、この手紙はイタリア語だが筆跡からスペイン人の手によると考えられる点などからスペインの単位であるarrobaと読むべきだという。

*6:Smithはこれが最古だと言い切ることはしないが、技術的観点から13世紀後半より遡ることはないだろうとも言っている。それ以前にはペンの技術的制約により、字を書く時はかならず線を自分の方に引く形(右手で書くので、上から下・左から右という方向)で書かれていたからである。13世紀なかばごろにペンが改良されて反対の方向の描線が可能になったために、@のような形が可能になったようだ。事実、この1391年の例では@の上部、右から左に動く箇所でペンが羊皮紙に引っかかり線が乱れているのが確認できる。

*7:cf. Nicolas Buat & Evelyne Van Den Neste, Dictionnaire de paléographie française, 2011

*8:借方にdaを用いるため、視覚的にわかりやすくしたり、aをdaに書き換えるのを防止するためかもしれないとSmithは述べている。

書体と老眼

B. L. Ullman はその著書 The Origin and Development of Humanistic Script(Edizioni di Storia e Letteratura, Roma, 1960)でゴシック体から人文主義書体への変化の足跡を辿っているが、その中で面白い指摘があったので紹介したい。以下の記述はほぼ全て同書の第一章前半のものである。

Ullman曰く、のちに人文主義書体と呼ばれるようになる書体の最初の痕跡はコルッチョ・サルターティの手によるものに認められるという。この本の第一章ではその点が細かく検討される。
そこで問題となるのが、なぜゴシック体の改革がイタリアから始まったのか、という点だ。というのも、サルターティのような人文主義者が活躍していた地域では比較的端正なゴシック体が生き残っていて、複雑な省略や融合は控えめだったから、一見すると改革の必要は薄かったように思えてしまうのだ。
その疑問に対する回答は人文主義者の活動の性格そのものにある。人文主義者たちは同時代の写本に飽き足らず、古い(主にカロリング・ルネサンス期に作られた)写本を追い求め、読み漁った。これは2つのことを意味する。まず単純な読書量の増大。そして次に、人文主義書体のもとにもなった古い書体(カロリング・ミニュスキュル)と接する機会の増大である。
このような事情から、より読みやすく、より「正統的な」書体が発展していくことになる。

さて、Ullmanはこれに加えてもう一つ面白い仮説を提示している。それは人文主義者の視力の低下がこの動きを後押ししたというものだ。
先に触れたように、人文主義者たちは読書量が増大し、読みにくい書体に悩まされていた。そのことはペトラルカが当時の書体を批判する次のような箇所からうかがうことができる。

[私の書簡集は]あいまいでけばけばしい書体――それは写字生というより、近年の画家のものとでもいうべきで、遠目には楽しいですが、近づくと目を弱らせ、疲れさせるものです。あたかも読むためではない、他の目的のために作られたようで、権威ある文法学者の言うように文字 litera とは「legitera の謂である」*1といわれているのを無視しているかのようです――ではなく、明瞭で自ずから目に入ってき、そこにおいてはいかなる正書法や文法規則も疎かにされていないとあなたも言われるような、そんな字体で書かれることでしょう。

... non vaga quidem ac luxurianti litera - qualis est scriptorum seu verius pictorum nostri temporis, longe oculos mulcens, prope autem afficiens ac fatigans, quasi ad aliud quam ad legendum sit inventa, et non, ut grammaticorum princeps ait, litera « quasi legitera » dicta sit -, sed alia quadam castigata et clara seque ultro oculis ingerente, in qua nichil orthographum, nichil omnino grammatice artis omissum dicas.*2

さらに、ペトラルカは他の箇所で同時代の書体の細かさ、圧縮、過度の省略が目に辛いことをこぼし*3、一方で11世紀の写本をほめている*4という。
先に引用した書簡が書かれたのは1366年で、このときペトラルカは62歳であった。たしかに老眼が気になりそうな年齢である。
同様に、サルターティも1392年、61歳のときに、「大きな字で in littera glossa」書かれたキケロの写本を要求している*5

まあこれは結局、読書量の増大が具体的な問題となって表出してきたにすぎないのだろう。今でこそ老眼鏡が簡単に手に入るが、「1400年台には、書体を改革するほうが眼鏡を改良するより簡単だった」*6というわけだ。とはいえ、いま現在われわれが親しんでいる欧文書体の基礎が、人文主義者たちの老眼を契機に開発されたかもしれないというのは面白い話だ。

さらに、このゴシック体から人文主義書体への変化を遡ること数百年、8世紀にも、60代前半となったボニファティウスが視力の悪化をかこつ手紙を残していることもUllmanは指摘している。
その上で(どこまで本気かわからないが)その一世代後に発展するカロリング・ミニュスキュルもこの不満に由来するのだろうか、という疑問を提示している*7
この仮説を採用すれば、カロリング小文字体はその誕生から復権まで二重に老眼に負うところがあることになる。

*1:cf. DMLBS, s. v., legitera, « littera est quasi legitera, quia legentibus iter praebet »「litteraとはlegiteraの謂である。読者に道を示すからである」, Alcuin, Gram., 855A Ullman曰くペトラルカはプリスキアヌスを引用しているとのこと

*2:Petrarca, Familiarium Rerum, XXIII, 19, 8

*3:Petrarca, Seniles, VI, 5

*4:Petrarca, Fam., XVIII, 3, 9

*5:Coluccio Salutati, Epistolario di Coluccio Salutati, v. 2, ed. Francesco Novati, Forzani e C. Tipografi del Senato, Roma, 1893, p. 386

*6:Ullman, op. cit., p. 15

*7:ibid., p. 13-14, n. 9

'It's Greek to me'再考

 英語の言い回しの一つに It's Greek to me と言うものがある。直訳すれば「これは私にはギリシア語同然だ」とでもなろうが、意味としてはつまり「ちんぷんかんぷんで理解できない」ということになる。この表現の歴史は古く、有名どころではシェイクスピアに以下のような箇所がある。

カッシウス:シセローは何か言ったか?
キャスカ :言った、ギリシア語を喋った。
カッシウス:なんと言ったのだ?
キャスカ :何を言うのだ、それが答えられるくらいなら、二度とお目にはかからぬ。とにかく、解った連中はおたがいに顔を見合わせて、にやにや笑いを浮かべ、首を振っていたが、このおれには、文字どおり、ちんぷんかんぷんのギリシアだった。(福田恆存訳, 「ジュリアス・シーザー」, 『新潮世界文学1シェイクスピアI』, 新潮社, 1968, p.98, 強調引用者)

Cassius Did Cicero say anything?
Casca Ay, he spoke Greek.
Cassius To what effect?
Casca Nay, an I tell you that, I'll ne'er look you i'th'face again. But those that understood him smiled at one another and shook their heads; but for mine own part, it was Greek to me. (Julius Caesar, Oxford University Press, The Oxford Shakespeare, ed. Arthur Humphreys, 1.2, l.275-281, p. 116-117, 強調引用者)

この表現はシェイクスピアの時代にはすでに慣用句と化していたらしい(v. OED, s.v. Greek, II.8.)。また、これに類した表現は西欧各語に存在し、フランス語ではギリシア語の代わりにヘブライ語だったりする。
さて、このあたりのことは実はすべて柳沼重剛, 「'It's Greek to me'考」(『語学者の散歩道』, 講談社現代文庫, 2008, p.2-14)に述べられている。そこで著者はこの表現にギリシア語が選ばれた理由について考察し、まず表記される文字の違いを挙げたあとに次のように述べている。

ここでいきなり私の独断と偏見を押し付けるのは恐縮だが、典型的な「ちんぷんかんぷんな」ことばとしてここで選ばれる光栄に浴するには、その言語が一方では近寄りがたく難しいと思われていると同時に、他方ではたいへん「すぐれた」「尊敬すべき」ことばだとも思われていなければならないと思うのだ。(p.6-7)

この考えは、この表現がルネサンス期以降、俗語に始まったという暗黙の前提に立っている。しかし、別の本によるとこの表現はラテン語にまで遡ることができるらしい。このブログで紹介されていたが、John Edwin Sandys, A History of classical scholarship, Cambridge University Press, 1903(Internet archive)には次のようにある。

ローマ法研究は12世紀初頭ボローニャで、イルネリウス(1113年ごろ)によって復興された。イルネリウスは講義でローマ法について解説しただけではなく、短い注釈(「欄外注 glosses」として知られるもの)の形で語学上の問題についても説明する習慣を導入した。[...]13世紀にはイルネリウスの例は同様にボローニャで教鞭をとったフィレンツェのアックルシウス(1260年没)によって受け継がれた。公開講義の折、ユスティニアヌスホメロスを引用している箇所に出くわすと、彼はいつも次のように言ったと伝えられている。「これはギリシア語であり、読むことができない Graecum est, nec potest legi」この表現は口頭での講義にのみ用いられたと見られ、その言い換えである「読まれない non legitur」は「これはギリシア語であるから、ここでは解説されない」以上のことは意味していないはずである。この表現は彼の『学説彙纂』の翻訳には見られない。アルベリコ・ジェントリ(1611年没)が示したように、その翻訳においてアックルシウスはテクストに出てきた数多くのギリシア語を適切に説明しているのである。しかしながら、もし先の表現がアックルシウスによって用いられたのだとすれば、それはこの学識ある法学者がギリシア語に疎かったからではなく、ギリシア語の知識に対する世間の目が彼を異端の誹りにさらす恐れがあり、それを避けるほうが賢明だと判断したからであろう。

Early in the twelfth century the study of Roman Law had been revived at Bologna by Irnerius (c. 1113), who, besides expounding the Roman code in lectures, introduced the custom of explaining verbal difficulties by means of brief annotations known as 'glosses'. [...] In the same century the example of Irnerius was followed by Accursius of Florence, who also taught at Bologna (d. 1260). Whenever in his public lectures he came upon a line of Homer quoted by Justinian, tradition describes him as saying: Graecum est, nec potest legi. The phrase would naturally occur in his oral teaching only, and its alternative form, non legitur, need mean nothing more than, 'This is Greek, and is not lectured upon '. It has not been found in the published Glosses of Accursius, who, in his translation of the Pandects, as was shown by Albericus Gentilis(d. 1611), correctly explains the large number of Greek words occurring in the text. It has been suggested, however, that if the phrase was used at all by Accursius, it was not due to any ignorance of Greek on the part of this learned lawyer, but to the fact that the public assumption of a knowledge of that language would have laid him open to an imputation of heresy which he deemed it prudent to avoid. (p.582-583, 強調原著者)

要約すると、この表現は13世紀の(ギリシア語の知識を持つ)ローマ法学者によって、異教的と言われないための予防線として用いられたと言われている。もちろん、現在の表現がここに直接由来するという証拠はない。しかし、アックルシウスのギリシア語に対する「無知」はルネサンス期の人文主義者たちから批判を受けたらしいので、可能性はあるように思う。もしそうならば、柳沼重剛の推測とはやや異なり、ギリシア語が異教の言葉として警戒されていたからこそ、「ちんぷんかんぷん」という予防線が張られたのだということになるだろう。