メトキテス『雑録と格言』

 13-14世紀のビザンツにメトキテス(Theodore Metochites, 1270-1332)という文人がいた。そのエッセイ集ともいうべき著作がこのSemeioseis Gnomikaiで、あえて和訳すれば『教訓論集』とでもなりそうだが、タイトルではブリタニカの記述に従った。この作品だが、希英対訳版の第一巻が2002年にスウェーデンヨーテボリ大学から出版されている。まえがきを読むと全四巻の予定らしいが、管見の限りそれ以来続きは出ていないようで、頓挫してしまったのではと思わされる。ともかく、この著作は全部で120のエッセーからなるのだが、第一巻についている目次を見るだけでもなかなか面白そうな題名が並んでいる。ここではひとまずその題名の中から面白そうなものを訳してみよう。

1. 序言。もはや何も新しいことは言えないということが示される。
4. 誰もが知的空しさに苦しんでいること
6. 誰もがみな慣れ親しんだものを好むこと
8. 賢い人間はみな皮肉屋でウイットに満ちていること。とくにプラトンソクラテスについて。
9. 自分の考えを述べるのは不可能だということ
10. 賢い人間はみな先人を軽んじていること。プラトンアリストテレスについて。
27. 人間の生への哀歌
28. 「悲しみから免れて人生を送るものはいない」という物言いについて、また、人生の転変(著者のみに降りかかったものも含む)について
31. 肉体のうちにあるものは現実の完璧な理解を得られないこと、また、このことに関する、酩酊してはいるが完全に泥酔はしていないものから得られる例証
34. 無知で愚昧なもののうちにも、教育を受けたものに劣らず幸福な生活を送り、自己評価の高いものが居るということ
41. 人はふつう過去を思い焦がれ、それを熱心に思い出すこと
54. 人はそれぞれの間で矛盾したことを言い合うだけでなく、しばしば自分自身とも矛盾するということ
55. 正しく公正な判断を行うことは人には不可能だということ
57. 財産があって成功した人を軽蔑し、哲学的態度を装う人がいるが、それは自身それを得ることができず、妬ましいからだということ
58. 人間にとって生まれたほうが良いか生まれないほうが良かったかという問題。また、生まれたほうが良いということについて。
59. ひとがしばしば自分自身について語るということ
(p. 4-19)

 これらの題名から伝わってくるのはメトキテスの懐疑的態度だ。事実、懐疑主義がそう荒唐無稽でもないということをのべるタイトルもある。メトキテスにとって、人生や思想を扱うことは人間の能力を遥かに超えることなのだろう。
そのなかでも白眉というか、衝撃的なのは、なにより冒頭の序言であろう。そこでは、あらゆることはすべてすでに偉大な先人によって扱われているのだから、今を生きるわれわれには何も言うべきことなどないということが示される。

(なにかを述べる能力があったとして)一体それをなにに使えというのか?じっさい、あらゆることはすでに誰かが取り組んでいて、われわれが今更声を上げるべき何ものも残されていないのだ。研究するのにもっとも適しているといえる、宗教的事柄でもそうだし、他の分野の、世俗的知識に属するものでもそうだ。[...]人が心動かされるようなテーマについて、何も新しいことなど言えない。誰かによってすでになされ、聞かれたことしか残されていないのだ。(p. 22-25)

しかし、メトキテスはそれでもこの著作集を出版した。その理由は次のように説明される。

しかしいま私としては、短い覚書や断片的なノートを出版するのは、あるいは全く由なしとはしないのではないか、という考えを持つに至った。そこには今に生きるものとしての私が折々に考え、結論づけたことをそのときどきに書きつけてあるのだが、 それをきいた人はたいてい同意し、その考えを認めることで裏付けてくれるのではないかと思われる。というのは読者たちも、思い巡らせるうちにこのようなことを心に考え貯めていただろうからである。 (p. 24-27)

この箇所から読み取ることができるのは、「わたし」が考え、思い巡らしたことを記述することに対する価値付けである。ここではあくまでも消極的に、仄めかすように言われているだけだが、メトキテスは自分が考えたことを記すことに価値を認めるに至っている。 それは、この後に続く記述のように、今生きる人々に課されている沈黙そのものについて語るということも含まれる。このような記述は、古代人と比肩するとまでは言えないにしても、同時代の人びとの同意は少なくとも得られるものだとされる。たとえ古代の優れた人びとによってあらゆる問題が論じ尽くされているにしても、いま、ここでわたしが考えることには何がしかの価値がある、あるいはそのような自負があったのかもしれない。

Theodore Metochites on Ancient Authors & Philosophy: Semeioseis Gnomikai 1-26 & 71 (Studia Graeca Et Latina Gothoburgensia, 65)

Theodore Metochites on Ancient Authors & Philosophy: Semeioseis Gnomikai 1-26 & 71 (Studia Graeca Et Latina Gothoburgensia, 65)

Voyage

この愛想のいい土着民が教えてくれた言葉を私が反復しようとしたとき、その土着民は叫んだ。「おやめなさい。ひとつの言葉が使えるのは一度だけです」。
ボッツァロ『旅』(アントワーヌ・コンパニョン著, 『第二の手、または引用の作業』, p.127, 今井勉訳)


この文章はもともとジャン・ポーランが『タルブの花』でエピグラフとして引用していて、コンパニョンはそれを孫引きしている。しかしこのボッツァロなる人物については検索してみても全く情報が得られない。コンパニョンにしても一応出典は示しているのだが、ポーランの示したものの丸写しで、「ポーランの『タルブの花』に引用されている」と予防線を張っている。おそらくコンパニョンも原典に辿りつけなかったのだろう。それで調べている内に出くわした情報だが、ポーランはしばしば偽の引用をでっち上げたらしい[pdf]。仮にこのエピグラフも偽の引用で、そもそも出典など存在しないのだとすると面白い。というのもポーランの『タルブの花』はまさに文学や言葉によそから持ってきたものを持ち込むことについての文章だからだ。この本もなかなか一筋縄ではいかず、安直な読解を許さない政治性を感じさせるものだったが、そこにさらに新たなねじれを持ち込んでくれそうだ。

まあそんなややこしい話は脇においておくとしても、この一文の喚起するイメージは非常に鮮烈なものがある。なんだかこの文章を元にして短編のひとつくらいでっち上げられそうだ。もしそんなことが出来る人がいたら、ぜひボッツァロ著『旅』として世に放ってほしい。ますます事態がややこしくなって面白いだろう。

ところで偽の引用からなるエピグラフというと、思い出すのはスタンダールだ。彼の『赤と黒』も各章にエピグラフが付いていたが、あれもかなりの量作者によるでっち上げらしい。やはりエピグラフというのは一文だけ切り取ってくるものだから、思いついたはいいもののうまく作品のなかに落とし込めない決め文句なんかを使うのに都合がいいのかもしれない。こうしてみると偽のエピグラフというのは探せばいろいろありそうだ。それをまとめてみたり、そこからふくらませた短篇集なんてできたら読んでみたい。


第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

阿呆船

まず皮切りに一踊り。
積んだ書物は山ほどあるが
とんと読みゃせぬ分かりゃせぬ。(p.20, 尾崎盛景訳)

ブラントの『阿呆船』ではまず最初に「無用の書物のこと」と題された章があって、いわゆる積ん読が揶揄されている。この章が最初にあるのは著者であるブラントが自分のことを笑ったからだともいうけれど、この本が出版されたのが1494年ということで、いまだ活字書物の揺籃期=インクナブラの時代だと思うと、積ん読の歴史の深さに打たれるようだ。以前積ん読がtsundokuとして英語圏に「翻訳不可能な単語」として紹介された記事を見たことがあるけれど、いずれOED入りする日も来るかもしれない。しかし「積ん読」というのがほとんど出版文化と同時に生まれたものだとすると、これを指す言葉が西洋に生まれなかったのは変な話だ。むこうの方が通読義務というか、古典を読んでいないと公言するのははばかられることだったのだろうか。確かにロッジの『交換教授』に描かれた「屈辱」なるゲームの顛末などを見るにそうなのかもしれない。そういえば以前、英語の記事で「読んだふりをするために本棚においておかれる本トップ10」みたいなランキングも見たことがあるから、これもその例証になるかもしれない(ちなみにそのランキングの上位は『高慢と偏見』とか『1984年』だったように思う)。もちろん日本でも本棚に飾るために本を置くということはままあるだろうが、それが具体的なタイトルになるということは珍しいような気がする。そういう目的の場合、日本だと「世界文学全集」のようなものになるのではないだろうか。

さて、これは英文科の教授がいつか言っていたことだけど、なんでも本は部屋においておくだけで夜寝てる間に中身が滲み出してきて、勝手にこっちの頭が良くなってくれるらしい。大変ありがたい話で、それ以来僕もどんどん本を買っては積むようにしているもののなかなか効果が出ないので、もっと量が必要なのだろうと考えている。最近ではいよいよ本棚からあふれてきて、常時机の上に本が積まれているのだけど、聞くところによるとルネサンス期には本というものは積んでおくのが常態だったそうなので、いにしえの人文主義者たちの顰に倣っている。


頭を割るほど苦労して
なんで覚えにゃならぬのだ。
学問しすぎりゃ気がふれる、
わたしは貴公子、学問は
他人にまかせておけばよい。(p.21)

阿呆船〈上〉 (古典文庫)

阿呆船〈上〉 (古典文庫)

フランス・ルネサンスの文明

ルネサンスというと、様々な碩学たちが現れてギリシアやローマの古典の再興に尽力した、輝かしい知の時代というイメージだが、ここで示される姿は、それを否定するとまでは言わなくとも、それとはまたちがった一面を見せてくれる。

まず冒頭からして当時の人々がいかに「田舎もの」だったかをこれでもかと見せてくる。ここで描かれるパリの姿など人の詰まった農村という他なく、「都会」などというものは存在しなかったとわかる。その他にも、当時の邸宅には廊下がなかった(したがってよその部屋に用事があったら、他人の部屋を突っ切らないといけない)とか、セントラルヒーティングなど存在しないので領主たちもみんなといっしょに台所で食事をしていたとか、心暖まる(体は冷える)逸話がたくさんある。

こんな調子で定住すべき都市は存在しない、人はいつ死ぬかわからない、家族もしょっちゅう離散する、とあってはルネサンスの人々が旅する人々だったというのも驚きではなくなる。そんな心性をこれでもかと示す最高のエピソードがエラスムスの『対話集』から引かれている。

今しも四人の男、まともに結婚し、立派な職を持ち、一戸を構えて穏やかに暮らしている町人が四人、夕方になって古馴染同士酒を汲みかわしている。少々飲み過ぎの気味さえあり、葡萄酒で頭がかっかとしてくる。一人が唐突に言い出す、「俺が好きなら一緒にどうだ……ガリシアの聖ヤコブ様までお参りに行くぞ」。酔払いの突然の発作だ。するともう一人がすっくと立ち上がって、「この俺はサンティヤゴ・デ・コンポステーラにゃ行かないね、ローマへ行くぞ!」残る二人が宥めにかかる。まず最初にガリシアの涯てなるサンティヤゴへ行こう。そこからローマへ回ろうじゃないか……俺たちも行くぜ。そこで四人は大杯になみなみと葡萄酒を満たし、順に回し飲む。固めの杯だ。定法通りに誓いが立てられた以上、後へは退けぬ。杯は飲みほされぬ、旅立たんいざ、である。そこで一同は出発した。さてこの四人の巡礼のうち、一人はイスパニアで死んでしまい、もう一人はイタリアで死ぬ。三人目はフィレンツェで重病の床に臥し、彼と別れた最後の一人だけが一年後に、疲労困憊し、老けこみ、尾羽打ち枯らして戻ってくる…… (p.64, 二宮敬訳)

なんだかラブレーの本から出てきたような奴らだが、これこそまさに「ルネサンス的」なのだろう。

さらに最初に触れた知の探求というテーマについても非常に面白い姿が示されている。なかでも訳注で紹介されているギヨーム・ビュデが受けたギリシア語教育についての回想は衝撃で、こんな山師のような教師からエラスムスなどの碩学が輩出されたのかと思うと、ルネサンスというのが奇跡のように思われてくる。

しかしこの本の最大の見所は、当時絶世の美女とされた人々の肖像画をこき下ろしてみせるフェーブルの舌鋒の鋭さにあるということは論をまたないであろう。


フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の四つのイメージ (ちくま学芸文庫)

フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の四つのイメージ (ちくま学芸文庫)

Controversiae

セネカControversiaeが意外と面白い。この本では当時弁論の練習として行われていた模擬裁判弁論から、様々な弁論家の印象的な論じ方を集めているのだが、その際弁論家の人となりについて紹介することもあって、そこがなかなか楽しく読める。

例えば、アルフィウス・フラウスという弁論家がいる。大セネカは彼を次のように紹介する。

 アルフィウス・フラウスは未だ少年に過ぎなかった時、すでに非常に良い評判を得ていて、ローマ人民にその雄弁で知られていたほどであった。ケスティウスはいつも、彼の才能を認めるとともに、恐れてもいた。彼が言うには、これほど早く偉大になってしまった才能は長続きしないという。しかしアルフィウス・フラウスの弁論はあまりに多くの人が集まって聞いたため、ケスティウスもあえて彼の後に話そうとはめったにしない程であった。アルフィウス・フラウス自身、自分の才能に対してなしうる限りの害をなしたが、それでも生来の力は彼において際立っていた。長い年月の後、怠惰によって破壊され、詩への耽溺によって弱められた時でも、彼の才能はその力を保っていた。加えて、雄弁の外にあるものが常に彼の雄弁をよく見せていた。少年期には若さが才能のけばけばしい飾りであったし、青年期には怠惰がそうであった。 (Con., 1.1.22)

ケスティウスというのはアルフィウス・フラウスの師匠で、当時学生に公開で模擬裁判弁論をさせるというのはよくあったことらしい。その上で最後に師匠が上手にやって見せて締めくくる、という順番だったのだろうが、教師にそれをためらわせるというのだから大したものだ。そんな輝かしい才能も、食いつぶしていくと青年期までしか持たないと言うのも悲しい。それに、怠惰が雄弁をよく見せていたというのも、ろくに勉強してないのにいい成績をとるやつのことはローマ人にもかっこよくみえたのだろうか、と思うと面白い。

アルフィウス・フラウスは別の章(3.7)でもでてきて、そこでもまたケスティウスに批判され、詩から表現を採ってきたことを戒められている。弁論が衰退しつつあった当時においては、若者が詩を読んだり歌を歌ったりして軟弱になっているのがいけない、という批判は一種の紋切型だったそうだが、ここで皮肉なのは、アルフィウス・フラウスが批判された表現の出典がオウィディウスArs amatoriaにあるということだ。というのもオウィディウスもかつては弁論を学ぶ身だったが、やがて詩へと転身したという、よく似た経歴だからだ。オウィディウスの場合は言うまでもなく大成したが、アルフィウス・フラウスについては青年期以降の話は伝わっていないようである。


Declamations, Volume I: Controversiae, Books 1-6 (Loeb Classical Library)

Declamations, Volume I: Controversiae, Books 1-6 (Loeb Classical Library)